正守



 夜半の暗い道を歩いていた正守はふいにあと言ってたちどまった。忘れ物をした。肩にひっかかた荷物のなかにアレをいれた記憶がない。手が無意識に顎にいき、間延びしだした髭が指先にあたってしゅりと音をたてた。
「うーん、しまったなぁ」
 これから実家に帰るというのに髭剃りを忘れてしまった。
 一日くらいならばまぁいいやとおもうが、今回の里帰りは刃鳥が気を利かせてまとめて暇をねじだしてくれたために一週間という長の滞在になる。その間ずっと髭を無精にしているのはいくらなんでも気が咎めた。実家にかみそりくらいあるだろうとおもって祖父と父の手入れを思い出してみたが、あまりかんばしいことにはゆかなかった。父は二十年来の電動シェイバーを愛用していて、祖父はなんと拵えの小さな脇差であのおおぎょうな髭をととのえていた。
 いまだ生え揃わぬ口のあたりのやつをT字のかみそりでしぃりしぃりとやるだけの正守にはどちらも敷居が高かった。
 弟二人はまだつるつるのほっぺたをしている。問題外だ。
 さてどうしたものか。実家の男衆に借りるという線は消えたから、ここは自力で調達していかねばならない。どこぞで買い求めようにも時刻はもう零時をまわっていた。
「あ、こういうときこそコンビニか。うわ便利。24時間やってるんだってさ」
 正守は自分の思いつきにぽんと手をうった。正守は夜行という職業柄宵っ張りなのだが、これまた頭領という職業柄あんまりそのような店にはたち寄ったことがない。へんなところで箱入りだ。新鮮な気分でええっとうんとたしかこっちのほうにと思い出しながらコンビニエンスストアを目指して道をはずれていくと、街灯のほの明かりを払うように煌々と光をはなつ一角があらわれた。業界最大手のゼンブトイレーディングだ。
 自動ドアをくぐると機械がいらっしゃいませと挨拶をよこした。それに店員がねむたげな声で復唱したのだが、正守の姿をみてぴしりと背筋をのばした。和装の若い男はたしかに珍しいのだろうが、店員の目を覚まさせたのはそれだけが理由ではなかった。正守からは何かずっしりとしたものが発散されていて、大学生のアルバイトが片手間に出迎えるにはいささか荷が重たかったのだ。ひさしぶりに伸ばしされた猫背はむりがかかり、どこか筋がちがって背骨にそってぎくりとした痛みがはしった。いい迷惑だ。バイトはレジの中でぎしぎしと背中をさすった。
 そんなことは露知らず、正守はくるりと店内を見渡すと目当てのもののありそうなあたりに歩をすすめた。深夜のこと、客は正守ひとりきりだから気を使うことなく棚をながめていられる。
「いつものやつって、どれかなぁ」
 正守はうーんと首をひねりながらフックにかかったT字かみそりの具合に目をはしらせた。男性用とおもわれるT字かみそりは二種類あった。どちらも愛用の品とは違ったが、その刃の多さに正守の目は釘付けになった。四枚も刃がついている。それだけだって十分すごいのに、さらにパッケージの説明をよみすすめると、なんと電動で首をふるというではないか。これは即買いだ。いますぐにもその剃り心地を試してみたい。なにせ電動ヘッドだ、正守の髭なぞきっとあっという間につるつるにしてしまうだろう。
「うーん…それじゃつまらないなぁ」
 せっかく買うのだ、祖父とまではいかなくても父くらいの髭が刈りたいものだ。ひげヒゲと考えていたら、三秒ばかり頭の中が空白になって、それからもんやりと弟の顔が浮かんできた。
「あー…あぁ…良守」
 正守は弟の顔からじわじわと視線をさげていった。ほそい首から鎖骨、ちいさな胸の印と下った先に連なる柔らか気な腹をなぞっていくと、うっすらとした下腹の陰りが見えてきた。弟はずいぶんオクテであるらしく、髭はおろか下生えさえも遠慮がちだ。だがこの新しいかみそりの剃り具合を確かめるにはいかにもぴったりな飾り毛だった。
「これだ」
 うん、ものすごく良いことを思いついた。正守は脳がぱっと活性するのを体感した。これが世に言うアハ体験というやつか。
 正守はオレンジ色のパッケージをわしづかみにしてレジへとすすんだ。


 翌日、正守の様子は一変していた。顔といわず、どこもかしこも引っ掻き傷だらけだ。耳たぶもへんなかたちに腫れている。まるで凶暴な犬猫と戦った後のようないで立ちだった。
「ふん、いい気味だ」
「あ、おはよう良守」
「声をだすなヘンタイ。耳が腐る」
「耳が腐りそうなのはお兄ちゃんだよー。みてこれ、この危険な腫れ方」
 正守はかがみこみ、さらに首をかたむけて良守の眼前に耳をさしだした。水餃子のようにぷっくりと腫れている。よく見れば端のほうなどはすこし切れてしまっていて、正守のすばらしく形の良い耳たぶは台無しになっていた。
 それを見た良守は忌々しそうに鼻をならした。
「もっとおもいきり噛んどけばよかった」
 弟の辛らつな感想にも正守はにこにこするばかりで、頭領の機嫌は最高に麗しかった。




2007・06・05
弟を剃毛するヘンタイな正守。兄の頭のなかで良守は常に全裸みたいです。